小沢一郎の生い立ち
東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)御徒町に弁護士で東京府会議員だった父・小沢佐重喜、母・みちの長男として生まれる。父は44歳、母は42歳という高齢で生まれたため、まるで"孫みたいな"子供だったという。母・みちは元千葉県会議員荒木儀助の四女である。一郎は、みちにとってははじめて生んだ子供である。本籍地は岩手県奥州市(旧水沢市)。3歳から14歳まで郷里の水沢で育った。
水沢市立常磐中学校(現在の奥州市立東水沢中学校)の2年生を修了後、東京の文京区立第六中学校に転校する。なかなか級友たちの中に入っていけず、いつも教室の片隅でひとりぽつんと座っていたという。
東京都立小石川高等学校卒業後、父と同じ弁護士を目指して東京大学を志望し、2年間浪人したが断念して、慶應義塾大学に入学。
慶應での一郎のニックネームは老成していたため、"おとうちゃん"だった。青年でありながら老人のような雰囲気を備えていた奇妙な学生だったという。
大学を卒業すると日本大学大学院法学研究科へと進学した。
自由民主党時代
田中派時代
大学院在学中の1969年(昭和44年)、父・佐重喜の急死に伴い第32回衆院選に旧岩手2区から自由民主党公認で立候補し、27歳の若さで当選した。この総選挙を党幹事長として指揮したのが田中角栄で、以後木曜クラブ(田中派)に所属し、田中の下で薫陶を受けた。
自民党総務局長、衆議院議院運営委員長を歴任し、1985年(昭和60年)に第2次中曽根内閣第2次改造内閣で自治大臣兼国家公安委員長として初入閣した。
竹下派時代
1985年、木曜クラブの領袖として影響力を保持していた田中に、反旗を翻した竹下登、金丸信らと共に派内勉強会「創政会」を結成。のちに経世会(竹下派)として独立した。竹下の総裁就任に奔走し日本皇民党事件の際には金丸とともに稲川会幹部の元に出向いている。竹下内閣の発足後、小沢は党・政府の要職を歴任し竹下派七奉行の一人に数えられ、官房副長官にも就任した。
第1次海部俊樹内閣では党幹事長に就任。苦戦が予想された第39回衆院選を、自由主義体制の維持を名目に経済団体連合会(経団連)傘下の企業から選挙資金300億円を集め、勝利したなどの実績から「剛腕」と称された。
1990年(平成2年)、金丸を代表とする北朝鮮訪問団(金丸訪朝団)に参加する。
同年8月、湾岸戦争が勃発し、小沢はペルシャ湾に自衛隊を派遣することを模索した。「アジアへの配慮が必要だ」と反対する外務省を抑え法案を提出した(なお、この法案は野党の反対で廃案となり、後に国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(PKO協力法)が成立)。自衛隊派遣について国会で公明党の協力を得るため、東京都知事選挙で自民党東京都総支部連合会が推す現職の鈴木俊一に代わり、新人の磯村尚徳を擁立するも都連が鈴木を支援した事もあり敗北。なおこの都知事選公示直前に出馬に意欲的であったアントニオ猪木と会談し、出馬を断念させたが、多額の金銭が動いたと一部メディアに報じられた。1991年(平成3年)4月、責任を取り党幹事長を辞任した。直後に経世会会長代行に就任し、名実とともに派閥のNo.2となった。しかし、次第に金丸は小沢に派閥を譲ろうと企図するようになり、竹下との確執を深めた。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
「剛腕」の異名を持つ政治家、ピンチです。